HISTORY〜MOTLEY CRUE編

1981 LAのクラブシーンで活躍していたバンドLONDONを1981年初頭に脱退したニッキー・シックスは新たなバンドを結成乗り出す。最初に引き込んだのは共通の友人を介して知り合ったSUITE19のドラマー、トミー・リー。続いて「当方、ラウドで下品でアグレッシブなギタリスト」という音楽広告誌に目を付けた
ニッキーはその広告の主ミック・マーズ(WHITE HORSEやVENDETTAなどでプレイ)と連絡をとる。すぐにこの男のギタープレイと奇妙な雰囲気を気に入った二人は彼をプロジェクトに参加させることを決意。
その後3人はヴォーカリスト探しに苦労するが、ROCK CANDYというバンドのシンガー、ヴィンス・ニールに目を付ける。ヴィンスはトミーとハイスクール時代からの知り合いだったが、人気のあるROCK CANDYを辞めてまでこの無名なプロジェクトに参加する気はなかったので最初のオーディションをすっぽかす。その後、再度誘われた頃はROCK CANDYを辞めていたこともあり、レコーディング現場に現れ、そこでのセッションもうまくいって加入を承諾。当時このプロジェクトには”クリスマス(ダサッ!)”という名前が付けられていたが、ミックの提案により”MOTTLEY KRUE”に変更。その後、ニッキーが攻撃的なイメージにしようとこれに手を加え”MOTLEY CRUE”というバンド名が正式に生まれる。

4月自主制作シングル”STICK TO YOUR GUNS”/”TOAST OF THE TOWN”をリリース。5月24日の「マスターウッド」でのファーストギグを皮切りに精力的なライブ活動が始まる。

12月には自主制作によるファーストアルバム”TOO FAST FOR LOVE”を発表。わずか1週間、超低予算で製作されたにもかかわらずこのアルバムは3万枚ものセールスを記録。ロサンゼルスではホール級の会場でプレイできるほどの人気バンドに成長していた。
1982 1982年6月メジャー・レーベルの”Elektra”と契約を交わす。バンドは新たにデビューアルバムをレコーディングしようと考えていたが、会社側は自主制作アルバムをリミックスし、デビュー・アルバムとしてリリースすることを要求。バンドもシブシブ従うことになった。82年9月、ロイ・トーマス・ベイカーの手により、デビューアルバム「華麗なる激情」が発売。メンバーはこのリミックスには不満だった。

またこの年の6月にはカナダツアーを行っているが、これが彼らがはじめてカリフォルニアの外で行ったツアー。12月には初のビデオ・クリップ”LIVE WIRE”を撮影した。
1983 83年2月、それまでマネージャーを務めていたアラン・コフマンのもとを離れ、ドッグ・マーギー率いる「マッギー・エンタテーメント」と契約。以後彼らは大規模な活動を展開することに。3月から4月にかけてKISSのサポートアクトととなったが、KISSがあまりに無軌道な彼らに恐れをなし(?)僅か5公演でお払い箱に。だが、これもバンドの悪名を高めるにはうってつけの材料となる。5月29日「USフェスティバル」の2日目に出演。

6月、トム・ワーマンをプロデューサーに迎えて、2ndアルバム”SHOUT AT THE DEVIL”を製作。レコーディング(3週間)中、ニッキーは時速140キロ以上で走っていたポルシェで電柱に激突。肩を骨折する事故を起こす。
9月、”SHOUT AT THE DEVILをリリース。11月から12月にかけてヘッドライナーとして23都市をツアー。12月3日「ビルボード誌」の全米アルバムチャートではじめてトップ40入りを果たす(最高位17位)28週ランクインを記録。プラチナムを獲得する。MTVでは”Looks That Kill”がヘビーローテーションとなる。
1984
1月から3月までオジー・オズボーンの全米ツアーのサポートを務める。4月から5月にかけてはSAXSONをサポートに14都市をヘッドライナーツアー。同時期に撮影された”Too Fast To Young Fall In Love”のビデオクリップが全米でオンエアされる。6月にRATTやACCEPTを従えたヘッドライナーツアーも大成功を収める。

8月18日、」イギリスのキャッスル・ドニントンで行われた「第5回 MONSTAR OF ROCK」に出演。なぜか一番最の出演順となる。英国デビューを飾ったMOTLEY CRUEはそのままヨーロッパ各地を回り、一旦帰国すると10〜11月にかけてIRON MAIDENのヨーロッパツアーのサポートを務め、11月19日にロンドンの「ドミニオン・シアター」STRATUSをサポートに従え、ヘッドライナーショーを行ったあと帰国。

12月8日。あの悪夢の事故が起こる。自宅でパーティを開いていたヴィンスは足りなくなった酒を補充しに近所の酒屋まで車を走らせた。飲酒運転およびスピードの出しすぎで車はセンターラインを超え、対向車と衝突。対向車の2人は脳に損傷がおよぶ重症、同乗していたHANOI ROCKSのラズルは死亡という大事故になった。HANOI ROCKSの全米ツアーがヴォーカルのマイケル・モンローの足の故障で中断され、しばしの休暇を楽しんでいた最中の悲劇だった。
1985 事故を起こしてしまったヴィンスはリハーサルも拒否して家に閉じこもりがちに。まともに刑を受ければ禁固8年とも噂され、ヴィンス脱退説も流れるが2月にはスタジオに出てきてレコーディングを再開。が、3月にはトミーがバイク事故を起こし後部に乗っていたARMORED SAINTのベーシスト、ジョーイ.ヴェラが手を負傷したが、手術で回復。トミーは軽症で済んだ。5月、ミックとヴィンスはアフリカ飢餓救済プロジェクト、HEAR'N AIDのシングル”Stars”のレコーディングに参加。”ENTAERTAINMENT OR DEATH”と仮タイトルを付けられていた3rdアルバムはTHEATREOF PAIN”とタイトルを飼え、6月にリリース。1stシングル”Smokin Boys Room”は初のトップ40入りを果たすヒットとなり、7月に初来日公演を行う。8月にはヘッドライナーとしてツアーを開始。第2弾シングルのバラード、”HOME SWEET HOME”もMTVでも大反響を起こす。アルバムは年末にトリプルプラチナムに輝く(全米最高6位)

前年の12月にヴィンスが起こした交通事故の判決はこの年の9月20日に下された。30日間の実刑判決、被害者への賠償金(270万ドル)、200時間の社会福祉活動が課せられた。
1986 1月から3月にかけてヨーロッパ〜イギリスをヘッドライナーとしてはじめてツアー。5月にはトミーが有名女優のヘザー・ロックリアと結婚。8月には初のホームビデオのための撮影が行われる。クリップ5曲を収めたビデオには「UNCENSORED」というタイトルが付けられ11月にリリースされた。この夏にはトミーがバイク事故で骨折している。
ヴィンスは交通事故に対する30日間の実刑判決が降りて服役。模範囚として18日間に軽減されたが、出所したときには当時の妻に慰謝料がわりに家財道具や預金を持ち出されていたという・・(可哀想な奴・・)
この頃はニッキーのヘロイン中毒はすでに治療が必要な段階にきていた。
11月にバンドは4thアルバムのためにスタジオに入る。
1987 5月、ニューアルバム”GIRLS,GIRLS,GIRLS”リリース。リリース直前に「骨の弱い男」トミー・リーまたしても骨折。
6月から大規模な全米ツアーが行われる。女性コーラス隊の「ナスティ・ハビッツ」も同行。トミーは360度回転しながらドラムをプレイするという荒業をやってのける。11月からはGUNS`NROSESをサポートにつけアメリカツアーを続ける

12月には2度目の来日公演を果たした。
シングル第3弾としてカットされた”YOU`RE ALL I NEED”はビデオクリップが衝撃的な内容だったため放送禁止となり話題になる。
12月22日、ハリウッドにあるホテルのシャワールームでヘロインの過剰摂取で倒れているニッキーが発見される。(発見者はガンズのスティーブン・アドラー)救命士によるアドレナリン注射と心臓マッサージを受け、病院へ運ばれたニッキーは危うく一命をとりとめる。このとき心臓は2分間停止していたという。この事件がきっかけでバンドはドラッグとアルコール中毒の克服に取り組むようになる。
1988 ニッキーの事件があったため1月に予定されていた欧州ツアーはキャンセルに。このときは「ニッキー死亡説」まで流れた。またこの時期、マシュー・トリップなる人物の発言により「ニッキーは二人いた」騒動が起こる。1988年初頭に黒魔術研究団「テンプル・オヴ・セト」の機関誌に「私はニッキー・シックスだった」という記事が載せられ、イギリスのマスコミを発端に大きな騒ぎを巻き起こす。この事件は訴訟にまで発展した。
6月には日本のみの発売「RAW TRACKS」がリリースされる。
1989 3月、ボブ・ロックを起用して5thアルバムの制作にとりかかる。
8月12,13日の「モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル」にBON JOVI、オジー・オズボーン、SKID ROWらと共演。このときの出演順や扱いで不満を爆発,ドク・マッギーと喧嘩別れし、ダグ・セアラーが彼らのマネージメントを務めることになる。この直後にトミーがドクのオフィスでジョン・ボン・ジョヴィを殴ったと報道され両バンドの対立が噂された。
9月にリリースされた”DR.FEELGOOD”は初の全米NO.1を獲得。10月にはSKID ROWをサポートにつけヨーロッパツアーを行い。11月からはWARARANTをサポートに従えて全米ツアーを開始。今回のツアーではトミーのドラムソロは観客の頭の上を飛ぶという仕掛けになっていた。
10月にマシューの敗訴(当然ですが・・)で「ニッキーは二人いた事件」終結。
1990 3月に全米ツアーを終え、5月には3度目の来日。来日記念盤として「RAW TRACKSU」がリリースされる。日本公演終了後、ニッキーがハワイでブランディ嬢と結婚。6月からは再び全米ツアーを開始。8月にワールドツアーが終了するまでにのべ200万人を動員。その後2本目のホームビデオ「DR.FEELGOOD THE VIDEO」をリリース。
ツアー終了後、ミックがナスティ・ハビッツのエミ嬢と結婚。ヴィンスは映画「フォード・フェアレーンの冒険」で冒頭で殺されるミュージシャン役で出演。この頃はGUNS`NROSESとの対立が表面化していた。
1991 1月、”DR.FEELGOOD”でアメリカン・ミュージックアワーズの最優秀HR/HMアルバムを受賞。ニッキー夫妻には長男が誕生。3月にはヴィンス夫妻にも長女誕生。
8月17日のドニントンを皮切りに「MONSTER OF ROCK」の8回だけ出演。9月には新曲”PRIMAL SCREAM」をリリース。10月には初のベストアルバム”DECADE OF DECADENCE”をリリース。全米チャート初登場2位を記録。
年末には「Elektra」と2500万ドルで新たな契約を結ぶ。
1992 2月14日、ヴィンス突然解雇。バンド側は「ヴィンスがカーレースに熱中しているため」と発表されたが、5日後にはヴィンスが声明を発表。当時マイケル・モンローと組んでいたスティーヴ・スティーヴンスと組みソロアルバム「EXPOSED」の制作にかかる。残った3人は元THE SCREAMのジョン・コラビを新たなボーカルに迎え、11月からレコーディングを開始する。
1993 1月、ようやくジョンの加入が発表される。この頃、トミー、ミックに加えジョンまでが離婚するという私生活でも問題の多い時期だった。
5月、ヴィンス・ニール初のソロアルバム”EXPOSED”を発表。9月には来日公演を行った。
1994 3月、ようやくニューアルバム”MOTLEY CRUE”がリリースされる。全米チャート7位で初登場したが、音楽的にもかなり変貌してしまったこのアルバムは評判がよくなく、ゴールド止まりに・・。チケットの売り上げも不振でツアーは規模を縮小という窮地に追い込まれる。4月、ニッキーに次男誕生。
10月、MOTLEY CRUE来日公演。この時期にヴィンスも再来日公演を果たしている。
帰国後、バンドはマネージャーのダグと友好的に別れ「LEFT BANK」に移籍。この頃はバンドとヴィンスは金銭がらみの裁判が起こっていてますます険悪な状態に・・。
1995 2月、トミーが女優のパメラ・アンダーソンと再婚。5月にはニッキーに3男が誕生するも、10月には現在の妻ドナと同棲をはじめ、当時の妻ブランディから慰謝料請求の裁判を起こされる。
8月、ヴィンスのセカンドアルバム”CARVED IN STORE”が発表。直後に既に別れていた妻との間にできた長女スカイラーが小児がんで亡くなっている。その後、ヴィンスは全米ツアーへ。
6月、MOTLEY CRUEはニューアルバムの取り組みにかかるが、ヴィンス復帰説が噂されるようになる。
1996 1月、ヴィンス3度目の来日公演。不十分なサポート体勢を不服として「Waner Bros.」を離れ、自力でツアーを計画するも、再びアルコールに手を出し、不安定さが目立つようになる。後にモトリーに加入するランディ・カスティロもヴィンスのバンドに参加。ニッキーはソロプロジェクト”1958”に取り組む。

9月、バンドはジョン・コラビの脱退を決める。ジョンはブルース・キューリックとUNIONを結成。ブルースと組むことを提案したのはニッキーだったらしい。
1997 1月27日、ヴィンス、ニッキー、トミー、ミックの4人は「アメリカン・ミュージックアワーズ」に出席し、復活をアピール。
すでに大部分作られていたアルバムをヴィンスが歌いなおす形でレコーディングされ、5月に「GENRATION SWINE」とタイトルを付けリリースされた。全米チャート初登場4位。4月には全員そろってプロモーション来日も。
8月、東京有明にて「ROCK AROUND THE BAY97」で2日間のトリを務める。
秋からはCHEAP TRICKをサポートに付け、全米ツアーを行う。
1998 「Elektra」との関係を終結し、全カタログのマスターも自分達の手に取り戻し自らのレーベル「Motley Records」を始動させることに。ニッキーは自身のレーベル「Americoma Rekords」から1958のアルバムをリリースすることを決める。
10月、2曲の新曲を含んだベストアルバム「GREATEST HITS」をリリース。このアルバムに伴うツアーは翌年の3月まで続けられた。
音楽の他にヴィンスは「BAD BONES」、ニッキーは「OUTLAW」という服飾ブランドを運営。
トミーは妻パメラへの暴力で4ヶ月服役することに・・。
1999 4月29日、またしても衝撃が。トミー脱退を表明。ソロ・プロジェクト”METHODS OF MAYHEM”に専念すること、復縁した妻と家族の時間を増やすため(パメラとは結局離婚)というのが理由だった。
”METHODS OF MAYHEMのアルバムは年末にリリースされ、好セールスを記録。
6月、「DECADE OF DECADANCE」以外のアルバムすべてをデジタル・リマスターし未発表音源をそれそれのアルバムに追加して再発した”CRUCIAL CRUE”シリーズをリリース。同時にSCORPIONSとツアーを開始(MAXIMUM ROCK TOUR)ドラマーにはオジー・オズボーンのバックを務め、ヴィンスのバンドにも参加したランディ・カスティロが参加。10月には来日公演も果たす。

11月、初のライブアルバム”LIVE:ENTERTAIMENT OR DEATH」を発表。プロデューサーにマイク・クリンクを起用して新作のレコーディングに取り掛かる。
2000 1998年に4ヶ月の刑務所生活を送ったトミー。その際に執行猶予期間中の飲酒を禁じられたが、仮釈放中にあっさりこの取り決めを破ったため、5日間の留置場入り、ランダムに行われるドラッグと飲酒のテストが2003年5月26日迄延長されることに。

6月24日、MEGADETHとANTHRAXと共に”MAXIMUM ROCK TOUR”をスタート。直前にランディが胃の緊急手術を受け、代役としてHOLEの女性ドラマー、サマンサ・マローニが参加。

7月、ニューアルバム"NEW TATOO”リリース。ニッキーのプロジェクト”1958”も”58”と名前を改め”DIET FOR NEW AMERICA”を発表。
トミー・リーMethods Of Mayhemで『オズフェスト2000』での全米ツアーを行なう。
”MAXIMUM ROCK TOUR”から、ANTHRAXが7月18日から撤退。

11月、来日公演。
2001 1月、ニッキー夫妻に女児誕生。

5月22日、バンドの自伝「THE DIRT」発表。

6月16日、トミーの自宅で息子の誕生日パーティに来ていた4歳の男の子がプールで溺死。

初のライヴ映像”Maximum Rock Show - Lewd Crued & Tattooed ”リリース。
2002 3月 ランディ・カスティロ癌のため死去。享年52歳
5月 トミー・リー、ソロアルバム”NEVER A DULL MOMENT”を発表。

プロデューサーのTom WermanがMOTLEY CRUEと彼らのレコード会社Beyond Musicを相手取り、過去のロイヤリティを要求する訴訟を起こす。

ニッキー、新バンドBRIDES OF DESTRUCTION結成。トレーシー・ガンズ、ジョン・コラビらが参加。

ニッキーが、バンドの自伝「The Dirt」を映画化する契約を結ぶ

ニッキー、服飾メーカーの「DRAGONIFLY」と手を組み「nisxx」ブランドを展開。

トミー・リー、ヴォーカルが急死したDROWNING POOLの代役として「Ozzfest」に参加。

10月 トミー・リーとパメラ・アンダーソンの養育権問題が解決。互いに対等な合同養育権を得ることで折り合いがついたということだそうで。

11月 日本語版「THE DIRT」発売。
2003
ニッキーの新バンドBRIDES OF DESTRUCTIONからジョン・コラビが脱退。理由は自身のソロ活動に専念したいからとのこと(だったら最初から入るなよ)

4月トミー・リーの自宅で少年が溺死した事故でトミーに無罪判決。

5月 ヴィンス、SKID ROW、POISONらとツアーに参加。ヴィンス・ニール名義でライブアルバムを発表。

8月売春婦への暴行容疑でヴィンスに逮捕騒動が起きる

10月 ニッキーがオリジナルメンバーでのMOTLEY CRUE復活を宣言

11月 日本とヨーロッパで2枚組みCDにDVDが付いた”LOUD AS FUCK”リリース
    アメリカでBOXセット”MUSIC TO CRASH YOUR CAR TO”リリース。
    
12月25日 ニッキーの新バンドBRIDES OF DESTRUCTIONが日本先行デビュー決定
2004 3月 ビデオクリップ集”Greatest Video Hits”DVDの国内盤が発売
   BRIDES OF DESTRUCTION全米デビュー

4月 2003年7月の売春婦への暴行容疑で訴えられていたヴィンスが法廷で争わない意志を表明し禁固刑を免れた。罰金1,000ドルの支払いと精神カウンセリングを受けるよう言い渡される。

6月 BOXセット”MUSIC TO CRASH YOUR CAR TO Volm.2”リリース
   ニッキーが”メタル・ハマー・アワーズ”でスピリット・オブ・ハマー賞 を受賞。

8月 BRIDES OF DESTRUCTION、SUMMER SONIC 2004で来日公演

10月 トミー・リーの自伝”TOMMYLAND”発表。
    ミック・マーズが長年患ってきた「強直性脊椎炎」の治療のため手術

12月 ハリウッド・パラディウムで記者会見し、ワールドツアーを行うことを発表。4曲の復活ライブを行う
 
    新曲 "If I Die Tomorrow"とプロモーションビデオがWEBで配信される。
2005 1月 ヴィンスがリア・ジェラルディーニとラスベガスで挙式

2月 北米よりツアースタート

  新曲3曲を含んだ2枚組みベストアルバム”RED, WHITE AND CRUE ”リリース

”RED, WHITE AND CRUE ”が全米アルバムチャートで6位を記録。カナダでは2位を記録する

7月 LIVE 8に出演

8月 トミー・リーのソロアルバム”TOMMYLAND THE RIDE”を米でリリース

10月 ライブDVD"carnival of sins"米でリリース

11月 来日公演

2006 1月 MOTLEY CRUE“ハリウッド・ウォーク・オヴ・フェイム”を名を刻まれる

3月 トミー・リーのソロアルバムの国内盤リリース

5月 ニッキー・シックス妻のドナ・デリコと離婚調停

6月 ライブDVD”Carnival Of Sins”の国内盤がリリース